淘汰ってなんだろう?(Re2:専門家も実は小出しなんじゃないだろうか。)

折角、説明していただいたのに遅くなりました。


なぜ自己が淘汰される恐怖を持つのかに疑問を持ちました。

今回のブリタニカの件や、レディオヘッドのアルバムダウンロード販売(参考)は、法律的にダンピングとは言わないのだろうが、より規模の小さな出版社、アーティストにとっては恐怖に近いものがあるのではないだろうか。少なくとも自分は恐怖を感じる。

レディオヘッドのアルバムが平均2.26ドルでダウンロードされる時代に、他のアーティストは何ドルでダウンロードしてもらえるのだろう。

専門家が知識やスキルを無料公開する時代に、自分はいくらで自分を売ればいいのだろう。


おそらく「財」とかそういう人間が後付けで生み出した概念を導入しなきゃいけないんでしょうが、もともと言語や音楽は人間の本能によって生み出されたもの(暴論かもしれません)で個人が簡単に作る環境、発表する環境が存在すれば個人のレベルで交換されるモノととらえます。


これに対価が必要なのは、ほとんど流通コストなのでしょう。
媒体に乗っかっているから一見動産のような気配を醸し出してますがあくまで人間が原始の世界から交換したがっている情報のように思えてなりません。


曲の話だと、「次も良い曲を作ってほしいから投資する」みたいに変化するんじゃないかって漠然としたイメージを持ってました。


スキルは減るモノじゃなくて作るモノ。投資してもらうモノ。こんなイメージがあります。
いつ誰が誰にって問題が変わっていっただけじゃないでしょうか?


実際、減るというイメージだけならなぜ共産圏は数十年も維持できたんだろうって考えたりもします。恐怖政治だったのかもしれませんが。

一般人の恐怖

市場経済的に価値のない人間は淘汰されてしまう。そして、その淘汰の基準がどんどん高くなっているという恐怖を感じている。いずれ自分も淘汰の対象かと。

人口収縮に対する脆弱性が増している社会で、食うための知識量、体力、スキルの基準が高くなっている状況で、疫病や食糧危機・国際紛争・災害等の何らかの擾乱が起こったとき、基準値以下の一般人は淘汰されるだろう。それも予想以上に。だって、もう必要ないんだもん、人口が。

さしあたり、この流れは止めようがないわけで、生命は淘汰の歴史を乗り越えて生きながらえてきた。淘汰の後には新たな繁栄があるだろう。頭ではそう思う。

でも、やっぱり怖い。


ここで「淘汰の対象」=「創造する能力の無い人」と仮定して

創造する能力の無い人Nがネット上でなんか言ってます。
ブログで「◯◯を××するtips」ってつまらん事をかきました。
それをみて◯◯がすごく得意な人Aは、素人つかまえて「もっと△△したほうがいいよ」と教えてくれました。Nは△△できるようになりました。すこしレベルがあがりました。スキルを得たんですね。

別の創造する能力の無い人Bは、「◯◯で××したい」と検索エンジンを回しました。
Nのページで「△△する方法」まで得てしまいました。

たしかにBはNまですぐ到達できましたが、Nにトラックバックを打ったBはまたNとは別の嗜好を持ってるでしょうから別の揺らぎが存在すると考えます。


この揺らぎがNもまた育てるとかんがえます。
AもまたBとNの切磋琢磨状態に刺激を受けてがんばるでしょう。
結果として、N A B 全ての人のスキルはアップしました。
検索さえすればNABのところへすぐ到達できるでしょう。
なぜなら思考するための道標はNBによってネット上に記述された訳ですから
「どんな下らないコピペでも素人を引き上げるためのシノニムになる」と考えます。
ただし、検索したときにだけですね。


ところが人間の興味及び時間はなんらかの理由により制限されている訳で、全方位にむくことはありえない。これが専門家がいなくならないことの理由じゃないかと思うのです。


例えば、がんばってネットで探せばいつかすごいスキルに到達できるでしょうが、いますぐ欲しい場合、このとき価値の移動が起こるんじゃないか。


しり切れとんぼかもしれませんが、ネット上で情報を交換しあってる限り専門家でありつづけるんじゃないかと思います。


情報を消費するだけの人が本当の弱者じゃないんだろうか…


と思い文章ぐだぐだでもネット上に居続けようと考えてます。私も亡びたくないですから。