道具論

我々は道具を目的として提供するのではなく、人間の使う道具を目的としている。
あくまで使用者が中心であるべきではある。
例外として道具の存在を知らない者に対しその道具を知らしめるコマーシャル活動もあるけどね。
逆説的ではあるが、我々が目指そうとしている場所に俺ごときが単体で挑むことが出来、さらに達成できるならば誰かが出来ていると思わないか?
私の属している組織はそんなにダサいやつの集まりかな?
また、より下の人間と上の人間ではその知識レベルに相当の差があったり、計算機の習熟度ではよりランダムな分布が見られる。
一体我々は誰を相手に道具を提供しているのだろう?
定義可能かな?
定義できないとすればみんなに使ってくれる道具はどうやって提供すべきかな?

1.今までの利用者のメタファーに合わせる
2.新しいメタファーを提供し利用者を教育する。

ここで1.はいままでの紙メタファーを利用したシステムで誰でも利用することが出来ることを意味する。
このシステムではあくまで紙に特化して最適化システムな為どうしても紙というデバイスに勝てないし、紙よりも高コストになることが多い。
例えばスプレッドシートという道具は考える紙という意味合いで微妙に紙メタファーを脱却していることがいえるが印刷された時点で紙に戻されるという意味で、計算機を利用している情報の再利用性が犠牲になっている。
保存という観点ではそれなりの効果をあげることが可能であったとも言えるが・・・結果としてペーパレスでなくペーパロスシステムになってしまっている。

では2.の観点とはどんなシステムなんだろう?
紙を利用しないシステムであることが考えられる。
印刷しないということは利用者が欲するコンテンツがいつでもどこでも利用者が欲する形で閲覧することが出来ることを意味する。
ただし、ここでは印刷を除外する。なぜなら印刷の概念を導入した時点で1.に還元されるからである。
2.の考え方がつまりユビキタスとかハイパーリンクとか蛇口をひねったら水のように計算機を叩けば計算力みたいな(別に坂村の回し者でない)考え方に通じると考えられる。
この考え方は利用者にわかりやすいメタファーを提供しなければ受け入れてもらえない。
利用者にわかりやすいメタファーというのは、まるっきり新規なときにはその解説を必要とし、今まで利用していた道具に近いメタファーであれば利用者に学習を必要としなくなる可能性がある。

どちらのほうが我々の目指す道具を利用者に提供できるかを決定するのではなく、臨機応変に使い分けるだけの度量を必要とするのではないかな?

結論としては、作った道具を使ってもらうことが道具作りを行っている我々の目的ではないのかな?

究極的な目的:みんなを食わせる

これを満たすために行動するのが我々の役目。
うちにもふがいない社員がいるわけだけど、道具によって活を入れることも可能ってこと(逆もまた真なり)。

まあこんなにトップダウンで語ると、
みんなって何だ?
食わせるってなんだ?
いつ食わせればいいんだ?今だけで良いのか?
とかいろんな疑問が鎌首もたげてくるんだけど、これ考えるのが我々の仕事。
こっちの上層部はその辺認識してないやつも多いのも確か。
我々の道具で活を入れたいのは実は俺だったりもする。(笑

最終的な答えはひとつでもそのルート(実現方法)はいくつあってもかまわない。
というか、その複数のルートが考えられる男がすばらしい能力を持っていると定義可能じゃないのかな?